【旧】本屋・散策舎

日々を確かに歩もうとする、散策者たちへ

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本と場と人のこれから : 本による場づくりの可能性⑧(終)

6. おわりに~本による場づくりの可能性~


本稿では、活字離れ問題の論点を明らかにすることで「読書の危機」の現在を明確にし、一方、そのアンチテーゼとして登場してきた本による場づくりに、読者が自らの秩序を再構築するきっかけとなりうる可能性と、新たなコミュニティやブックカルチャーとして成長しうる可能性を見出だした。
ただしこれらの場づくりは、従来の「読書の秩序」を覆すまでには至っていない。今後どのような効果をもたらすか、知の循環を担うコミュニティとして継続的に成長していけるか、新たなメインストリームとして日本社会に受け入れられるかは、今後の取り組みに注目していく必要がある。

時代の変化とともに本や読書は、我々自身が発信するコミュニケーションへと変化していった。インターネットは、読者が自らの「読み」を広く発信する場を提供したことで爆発的に普及した。しかし、その結果として個人の読む力が浮き彫りとなり、読者が自らの秩序を構築していく必要が生まれた。
現代社会における知の循環の崩れは「読書の危機」であるが、それは同時に、我々自身が本や読書の在り方を考えるチャンスでもある。すでに5章の事例のように、さまざまな場所で新たな時代における本や読書の在り方が模索されており、読者によるコミュニケーションの場によって、新たなブックカルチャーが生み出されようとしている。
これこそが、本による場づくりの可能性である。

本による場づくりは、本の新たな出版流通形態であり、新たな読書形態でもある。
本による知の循環システムを、現代に即した形で再構築できるかどうか、そして新たな知の循環を支えていけるかどうかは、我々一人一人の意識にかかっている。

新生する本の未来は、我々自身の未来なのである。



2013.1.7  記: 加藤 優



↓ 追記: 2015年現在の、本による場づくりについて

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本による場と、場による文化 : 本による場づくりの可能性⑦

5-2. 知を共有する場


読書は、必ずしも一人のものではない。従来でも読書会や輪読会のように、本を介して「読み」を共有するコミュニティが生まれてきたが、現代ではさらに様々な形となって広がりをみせている。ここでの「読み」とは、読まれる本と読む人によって創造されるテクストを表す。同じ人であっても本によって読み方は異なり、同じ本であっても人によってその「読み」は異なるため、そのような「読み」を共有し相互に理解することによって、個人の中にも、そのコミュニティの中にも、知の循環が生み出されるのである。このような、コミュニティとして成立しうる場の設計の一例として、ここでは「ビブリオバトル」を紹介する。

ビブリオバトルは「本を通して人を知る 人を通して本を知る」をコンセプトとした書評ゲームである。5分間で本を紹介、2~3分で質疑応答を行い、これを人数分繰り返した後に全員で投票、チャンプ本を決定する、という公式ルールに基づいて行われる。まず発表者にとっては、テクストを5分でまとめてアウトプットする場になる。5分ちょうどでその本のことを語るだけでも結構難しいうえに、チャンプ本に選ばれるには、5分の発表と2~3分のディスカッションのみで本の魅力を伝え、聴衆の共感を最も多く得る必要がある。この際、レジュメやスライドなどは使えず、自らの語りのみで本を紹介しなければならないため、ビブリオバトルを行う前には自然と発表する本を読み、その本について考えることになる。ここに、個人の知の循環が生まれるのである。

一方、聴衆にとっては自分の知らない本、あるいは知っている本でも新たな「読み」と出会うきっかけになる。また聴衆はディスカッションタイムでの質問や、チャンプ本の審査という形で参加することになるため、しっかりと話を聞く必要がある。こうして、ビブリオバトルという場レベルでの知の循環が起こる。ビブリオバトルには、個人の内にも、その場においても、創発的に知の循環を起こす仕組みが備わっているのである。

ビブリオバトルの優れた点は、本を読んだ後と読む前という二つの状況を結びつける、つまり本との出会いの場づくりを、気軽なゲーム感覚で行うことができる、という設計にある。従来の「本」は、「読書の秩序」に基づいたメディアであり、読者はそれを受容し、消費する側に過ぎなかった。しかしビブリオバトルにおいては、読者は発信者として本を語り、本は読者同士をリアルに接続するメディアとして用いられ、その場自体が「読み」を共有するコミュニティとして生成される。そこでは読書という行為が、まさに活きたコミュニケーションとして行われる。ビブリオバトルとは、読者が自ら知の循環をおこし、自らの秩序を構築していこうとする営みなのである。



5-3. 文化としての場の創造 につづく

本と人とが創発する場 : 本による場づくりの可能性⑥

5. 本と人とが創発する場


すべての知の循環は、まずその入り口が無ければ始まらない。つまり「本との出会い」が必要となる。従来は、選書の価値基準の規範として「読書の秩序」が存在しており、本との出会いの場としての役割は、長らく書店や図書館が担っていた。柴野京子は、特に書店における本との出会いの場としての機能を「購書空間」と名付け、その重要性について“自分にとっての価値を探すのは個人であるが、提示されないところから選択は生まれない”と述べている。また柴野は、“人と出版物とをふたたび媒介して、可能態としての「流通」を形成する”ことにこれからの新たな「購書空間」の展望を見出だしたが、そこには“「本に出会うリテラシー」の回路を取り戻す”ことが必要だと論じている。

この「本に出会うリテラシー」によって提供される場は、これまでにも多数存在している。例えば「今泉棚」に代表される書店員の棚づくり、『白い犬とワルツを』に始まる書店発のベストセラー、サブカル系・セレクト系と呼ばれる個人書店やブックカフェの流行などは、メディアとしての「購書空間」が読者に求められてきたことを示している。また図書館においては、図書館員によるレファレンスサービスがまさに「本に出会うリテラシー」の重要性を表している。このようなサービスや場づくりは、書店員や図書館員は「本に出会うリテラシー」を持つ本のプロだ、という信頼があるからこそ成り立つものであった。

さらに近年の例としては、松岡正剛と丸善がコラボした「松丸本舗」、千代田図書館と神田古書店連盟が連携して行っている展示販売「としょかんのこしょてん」のように、従来の場としての書店や図書館の中においても、何かしらの「本に出会うリテラシー」を持つ人・団体によるセレクトを重視するようになってきている。またブック・ディレクターの幅允孝がプロデュースした羽田空港のセレクトショップ「Tokyo’s Tokyo」のように、従来の書店以外の場で、他の商品と組み合わせて本も売るというやり方も増えてきた。
このように本との出会いの場は、従来の書店や図書館はもちろん、それらの枠組みの外へと広がり、さまざまな形で試みられるようになってきている。ここからは、「本との出会いをつくる場」「知を共有する場」「文化としての場の創造」という3つの観点に分け、新たに生まれてきた本による場づくりの事例を紹介する。



5-1. 本との出会いをつくる場 につづく

真の危機を見据える : 本による場づくりの可能性⑤

4. 読書の変貌

4-3. 「読書の危機」と新たな潮流



バブル崩壊以後の大不況、ゆとり教育、インターネットの爆発的普及、Amazonやブックオフの登場、そして電子書籍時代の到来など、人々が「本」を読まなくなった原因とされる事物は枚挙に暇がない。事実、1990年代半ばをピークに出版業界の規模は年々縮小し、出版社の倒産と雑誌の廃刊が相次いで起こり、書店の数も3分の2ほどに減少した。こうした出版業界の現状のみを見ると、確かに「本」は読まれなくなっている。

しかし、それらのデータが対象としている紙の「本」は、従来の出版流通に関わっているものに限定されている。1990年代以降、従来の出版流通システムに乗らない本(例えばリトルプレスやZINE、電子書籍)や場(例えばAmazonやブックオフ)が登場したが、そのような本や場そのものは1990年代以前にも存在している(洋書、古書店、同人誌など)。また同じく「消費的読書」の対象そのものが、「本」からインターネットへと移っていったが、それはテレビが登場したときにも起きたことである(その際は週刊誌の創刊によって対抗した)。これらの事実は、程度や時代の差こそあれ、従来の「読書の秩序」の担い手(出版業界や教育界)が、1990年代以降の時代の流れに対応しきれなかったことを示しているに過ぎない。それでは何を、「読書の危機」と捉えるべきなのだろうか。


↓ つづく

自由と秩序の狭間で : 本による場づくりの可能性④

4. 読書の変貌

4-2. 「消費的読書」の台頭



読書が大衆化した時期は、山梨あやによれば1960年代以降のことである。これはちょうど好景気に伴う「大量生産・大量消費社会」が本格的に幕を開け、日本が高度経済成長期に突入していく時期と重なっている。
出版業界では、1950~60年代には文庫本ブーム、新書ブームが起き、テレビの爆発的普及に影響を受けて、ビジュアルと情報の鮮度を重視した週刊誌の創刊が相次いだ。高度経済成長期は1973年のオイルショックによって終焉を迎え、以降は低成長期となるが、1980年代には雑誌の時代が訪れるなど、読書の大衆化は「消費的読書」という傾向をもって、ますます増幅していく。

その一方で、1950年代前半には文学全集ブームが起き、1961年には『国民百科事典』が、1962年には『日本百科大事典』が刊行されてベストセラーとなっている。また、子供に悪影響を及ぼすとされる有害な図書を規制する「悪書追放運動」が展開されだしたのも1950年代半ばからで、特にコミックへのバッシングは90年代前半まで続いた。
このような「読書の秩序」傾向は、1960年頃から現代に至るにつれて徐々に薄まっていくものの、現代でもなお根強く残っていることは、ここまで述べてきた通りである。

これらの事実から分かるのは、日本の読者は「自由な読書」を求めて「消費的読書」傾向を増加させていく一方で、それに伴い崩れたはずの「読書の秩序」をも求めているということである。この「自由な読書」と「読書の秩序」を同時に求めるという日本の読書傾向について、アルマンド・ペトルッチは、日本の出版文化が海外と比べて特殊なものであることを踏まえたうえで、以下のように述べている。

すでに述べたように、日本の場合は特殊である。(中略)日本の読者は、たくさんの読書を行う。それというのも、日本の読者の文化受容度は高く、書物文化から情報を得、また書物文化によって育成されることが義務と考えられているからなのである。この国ではまた、大学や学校の威信も絶対性を帯びている。もっとも活況を呈している部門は、手引書、娯楽・情報のための本、漫画などであるが、書物の価格はきわめて低い。それは総合的に見て、全体的に普及した大衆読書、消費誘導的な性格を帯びた大衆読書現象といってよかろう。この現象は、階層化された日本社会の権威主義的な性格に由来するため、おそらく唯一のものとなっているが、まさにそれゆえ他の地域に容易に移植することはできない。
ロジェ・シャルティエ編 『読むことの歴史』 大修館書店 , p.502-506. アルマンド・ペトルッチ「読書の危機、出版の危機」


この指摘の通り、近現代の日本社会ではまさに、本は「権威」として、読書は「義務」として、人々に意識されてきた。ただしその意識は、従来の日本社会における知の循環が、本を読むことによって成され、育まれてきたという事実から生まれたものである。権威主義的な性格と言ってしまえばそれまでだが、このように公としての「読書の秩序」の必要性と、私としての「自由な読書」の欲求を、同時に受け容れることができるというのは、良くも悪くも日本ならではの特徴であると言えよう。

「読書の秩序」が崩壊していくのは、確かに「消費的読書」の台頭と同時期ではある。しかし、「自由な読書」と「読書の秩序」を同時に求めるという日本の読書の性質を鑑みると、日本においては「消費的読書」の台頭こそが「読書の秩序」を崩した、とは言い切れない。さらに、1990年代後半以降に訪れる「出版の危機」は、「読書の秩序」がますます求められなくなるどころか、もはや「消費的読書」すらも、さほど行われなくなってきたことを示している。

この現状の原因と結果はさまざまにあるが、少なくとも本や読書、その場に対する人々の意識が1990年代を境に明らかに変化したことは、確かな事実として受け止めねばならない。ではこの現状を前に、我々が真に恐れなければならない問題は何か。次節では自由と秩序の両立の必要性を示しつつ、現代における「読書の危機」の姿を探る。



→ 4-3. 「読書の危機」と新たな潮流 につづく

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